『ミッドサマー』とかいう鬱映画の感想を記す

こんにちは、もっさま(@mossamaguna)です。

 

『パラサイト 半地下の家族』を観た時の予告編で興味を引いた『ミッドサマー』を観てきました。予想以上の鬱映画でしたので、気の向くままに感想を書いていきたいと思います。

 

まだご鑑賞でない方は、ねたバレを含みますので読むことはお勧めしません。

 

また、当方背景知識のないど素人ですが、批判は甘んじて受けようと思います。

 

この映画の特徴を一言で表すと、「展開は読めるけど、描写がそれを上回る」です。

 

主人公の女性はダニー。その恋人が人類学を学んでいるとかいうクリスチャン。

 

クリスチャン友人であり交換留学生のペレ(こいつが諸悪の根源、てか交換留学生って設定の描写ありましたか?)は、人間の人生を四季に擬えて年齢ごとの役割を説明しますが、あえて72歳以降の人類の役割を語りません。

 

その代わり、親指で首を刈る動作を行います。

 

この後、明らかに老年の爺婆の登場人物が食事の席の末端に登場し、さも宴の主人公かのように振舞います。宴の席順を見ると、明らかに年齢の順に並んでいるように見受けられることから、「あぁ、この二人は72歳を迎えたので死ぬんだろうな」と思いました。

 

しかし、あの二人があんな描写で最期を迎えるとは正直思いませんでした…

 

ここで気になったのは、アッテストゥパンで翁が飛び降りて死に損なった時の村人の反応です。

 

みんな残念がっているように振舞うんですね、「何やっとんねん!」的な。

  

映画のフィナーレを迎えるシーンでもこの残念がる反応を見ることができます。

 

フィナーレでは村人が「口にすれば痛みや恐怖を感じない」という何かを口にしたにもかかわらず、炎に包まれた時には悲鳴を上げています。

 

 それに対し儀式を見守っている村人は、自分の代わりに自ら生贄として犠牲になる人間に対し、尊敬の念というよりむしろ落胆の表情を浮かべているように見えます。

 

これを見て私は、「この村にいる人間は古くからの習慣を虚構として理解していて、その虚構の演者として不適格な人間に対して残念な気持ちを表明するんだな」と解釈しました。

 

つまり、大いなる茶番を茶番として演じきれない人間を嘲っているように感じました。

 

そんな茶番を真に受けてしまったのが主人公のダニー。

 

序盤の意味不明な展開で両親と妹を失ってしまう(なんで妹さんは口にホースが繋がれているように見えたのに、吐瀉物が服に纏わりついているの?)。

 

唯一の心の拠り所である恋人とはうまく行っておらず、村での極限状態にも関わらず「あなたも一人で逃げそう」とか言ってしまう始末。

 

家族を失い、恋人も信じられないダニーは自分という存在をありのままに受け入れてくられる村に徐々に溶け込み、最終的には自分の意思で恋人を生贄に捧げてしまう。

 

恋人か村人か、究極の選択を迫られるシーンのダニーの表情は葛藤や苦悶そのもので圧巻の一言。

 

なのに、9人目の生贄として自分が捧げた恋人が炎に包まれるシーンでは笑みを浮かべます。まるで、今までのしがらみから解放され、新しい拠り所を見つけたかのように。

 

こうやって連綿と、この虚構は続いていくんだろうな、と思いました。