『イーディ、83歳 はじめての山登り』とかいう偏屈老婦人が紡ぐ感動映画の感想を記す

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日本版ポスター



こんにちは、もっさま(@mossamaguna)です。

 

本作はイギリスの都会に住むポッシュな老婦人イーディが、遠い昔にやり残したスコットランドの山スイルベン登頂をあるきっかけで思い出し、ひとり挑戦するヒューマンドラマです。

 

最後の10分は圧巻の一言。サイレント映画さながらに、登場人物の台詞は少なく、壮大な音楽を背景にハイランドの絶景を余すことなく映し出しています(ドローンを使った空撮でしょうか)。ラストシーンも、イーディの顔から滲み出る感情が相まって、その景色の美しさをより際立たせます。

 

キャプションの「Never too late」にある通り、この映画には「何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない」という、挑戦を後押しするメッセージが込められています。

 

それ以上に私が感じたことは、家族愛に代表される人間関係の重要性でした。老いた両親がいる人の中には、経済的な援助されしていればいいだろうと考える人もいるのではないでしょうか。そして、それは必要条件かもしれませんが充分条件ではないと、この映画から改めて感じた次第です。

 

例の如く、ここから先はネタバレを交えつつ感想を書き連ねていきます。これからご覧になる方はご注意下さい。あらすじなんかは割愛します。

 

社会資本の重要性を再確認する

橘玲氏の『幸福の資本論』の枠組みで捉えてみる。

 

イーディはまとまった金融資本(現金)を持っていたが、夫の介護に人生を捧げてきたため、社会資本を形成してこれなかった。そして83歳となった今となっては、人的資本の形成もできそうにない。

 

資本をひとつしか持っていないと、ちょっとしたきっかけで貧困や孤独に陥るリスクが高くなることがわかります。(橘玲著『幸福の資本論』)

 

イーディは30年に亘り、車椅子生活を余儀なくされた夫を介護してきた。その夫がある日突然帰らぬ人となり、娘のナンシーがイーディを訪れる。二人の会話の中でイーディが発した「唯一心が休まる場所は近くのカフェだ」という台詞から、ナンシーは両親をあまり尋ねてこなかったこと、母の相談に乗ってこなかったこと、そして何よりイーディ自身が娘を頼ってこなったことが伺える。

 

橘玲氏の指摘する「ちょっとしたこと」はこの後イーディの身に降りかかる。

 

老人ホームの見学後、ナンシーと手分けをして家を整理している時にそれは起きてしまった。ナンシーは古い旅行鞄の中からイーディの日記を見つける。そこには母から父に対する読むに耐え難い不平不満が書き連ねてあった。あまりにショッキングな内容にナンシーイーディの制止を振り払い家を出ようとする。

 

その時、イーディは夫やナンシーの面倒を見てきたことを「duty(義務)」だったと口を滑らせてしまう。ナンシーの失望は頂点に達し、車で走り去ってしまう。おそらく唯一の肉親であろう娘との関係は、夫の死をきっかけに深まることなく閉ざされてしまう。

 

イーディは最後の社会資本を失ってしまうのだ。

  

イーディは死を覚悟していた?

イーディは文字通り決死の覚悟でスイルベン登頂に臨んだのだろう。その過程で様々なしがらみを振り払い、自由な身になっていく彼女の姿に心を打たれる。

 

先ず、洗面台で手を洗っている際に指輪を外し、自分の人生を規定した人物との繋がりの象徴である指輪をスイルベンに持っていかず置いていく。登頂を決意して家を出たことが第一の決別だとすると、ここで第二の決別をする。

 

次に、あわや遭難という時に見つけた山小屋の中で、父からのポストカードを山頂には持っていかず置いていく。このポストカードは父親との繋がりの象徴であり、この旅の根幹をなす重要なものである。

 

そして、急な斜面を両手も使いながら登るシーンで、数10kgはあり重しとなるリュックを投げ捨ててしまう。登山者のとってのリュックは生命線であり、正に命の象徴である。何とか急斜面を上り切ったが、イーディは疲労からその場に倒れ込んでしまう(ここでジョニーというもう一人の主役が助けにきます)。

 

過去と決別し、思い出と決別し、命を投げ打って、イーディはスイルベンの頂上にたどり着く。最後に、スイルベンを踏破した人たちがそうしてきたように、イーディは麓で拾ってきた小石を自分と見立て、山の頂上に置いていく。

 

自分との決別。

 

生まれ変わったイーディに山頂から見える景色はどのように見えたのだろう。